昭和56年4月11日 朝の御理解
第25節 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
なかなかおかげを頂きたい。為には大きな信心をしなければならない。話を聞いたからというて、一偏に心が大きくなるとは思われない。けれども、大きくなる事のための精進が絶えず、やはり行われておらなければならない、それが修行であらたなければならない。えー、椛目で人がだんだん助かるようになった初めの頃、んー、善導寺の町の方達が熱心に椛目に通うて見える。中でも、久保山豊先生、または原さん御一家。もう、親教会、いわゆる三井教会の隣同士のような所にある。
ああ、私もどっちかと言うと、心が細い、神経が細いですから。もう、親教会との難関という事が一番私にとってはつらい事であった。それも段々、信心を皆さん高められて行って、久保山先生の所でも、原さんのところでも、年に一回ずつの宅祭りがあった。皆で大祓いを奏上しよると、教会にも聞こえはせんだろうかと心を使うた。と、障子もこう閉めて、そしてお祭りを仕えさせてもらった。もう、もう側ですからね。その時分にはずいぶん色々あっちこっちから、本当に椛目の大坪は、もうにんぴ人だと言われる時代があった。
ただ、私も人情から言うたら、どんなに思うてもだいだい、普通から言うたら行ける事っちゃないですね。私の親教会の、その隣やらそのまた隣やらにお祭りを仕えに行くと言うのですからね。アンタ方は椛目に参って来ずに、三井教会が側じゃから、三井教会にお参りしなさいていうのが普通なんです。それが人情なんです。ね、そういう生き方で行けば、人もにんぴ人とも言わなかったでしょうけれども、そういう事が平気でなされた訳ではないけれども、心を使いながら。ね。ただ、御神意のまにまに、そういう事があった。
まあ、それにるいじんした事は、もう沢山である。それはまた、今日まで続いておる。ね。信者を取るの、取られるのというような問題が絶えない。ね、それが例えば、御教えにもあるように、泥棒じゃと言われても、乞食だと言われても、ね、泥棒しとらにゃ良い。もろうて歩かなきゃ乞食じゃないと。信心の帯をしっかりせよと仰るから、信心。もう本当に信心の帯を締め上げて、都度に締め上げて行かないと出ける事ではない。けれども、そういう信心修行させて頂いておる内に、椛目から合楽と今日のように、だんだん言うならば大きなおかげが合楽の上に現れてきた。
だから、一偏に大きくなるという事ではない。だんだん大きくなるけいこである。人が今のような生き方で行ったら、私の事をにんぴ人と言うておるそうですが。ね、私もにんぴ人にはなりたくない。とりわけ親教会、親子の間の事などは特にそれを感ずるんだけれども、神様はそういう時に、にんぴ人と仰っとる。人にはあらず、ね、神になるけいこと仰った。人には、ね、普通で言うのは、もうあれは言うならば鬼畜のような人間だとか、人間の面被っとるだけだと。というのを、にんぴ人とこう言う。
私がその事を神様にお届けさせて頂くと、おまえは確かににんぴ人だと。人にはあらん、神へ、神の方へ向かって行っておるのだから、確かににんぴ人だというような御理解を頂き、頂き、言うならそういう信心を進めさせて頂いて、それが言うならば大きな信心だと。例えば、そうして人間心を使って、そのやはり、私も義理人情を知らん訳じゃないから、つらいのですけれども。そこを、おかげを頂いて行っておりましたら、それこそ人が馬鹿と言うても、にんぴ人と言うても。ね、それが心に掛からんようになったと。
私は、ここ2~3日思うことは、馬鹿と阿呆で道を開けという、これは福岡の初代吉木先生の、四神様から頂いた御教えなんですけれども。もう合楽の場合は、この馬鹿と阿呆で道を開いて来たんだという風に思います。今でも、いよいよ、まあ言われておりますけれども。それが、一つも言うならば、はあ、おかげとしか頂けないように段々なって来た。人情を使わんで済む。ね、言うならば本当の馬鹿と阿呆というのは、それを感じない。人情、人間心を使わないで済む。そういう心こそ、私は馬鹿と阿呆で道を開くという事は、いよいよ大きな信心を開いて行くことだという風に思います。
そして、改めて昨夜の月次祭のお話を覚えます。今の教主金光様のお唄でございます。無駄を省くあらゆる工夫。ね、無駄を省くあらゆる工夫のいる今か。無駄の全てを心の無駄を、無駄もとある。ね、心の無駄を取るという事。言うなら、昨日の御理解からずっと、真空状態になるという事。ね、我情もなからなきゃ我欲もない。ただ、神様の御教えのまにまに、おかげを頂いて、心に、心にそういう人情を、人間心を使う。にんぴ人と言わりゃ辛かったという時代から、そのにんぴ人が、なるほどにんぴ人も、( )人間じゃないという意味のにんぴ人から、なるほど姿は人間の形してござるけれども。ね、あの人こそ仏様じゃろうか、神様じゃろうかという風に変わって行くという事。
ね。いわゆる心の無駄が無くなって行く。ね。お互いが、そういう言うならば人情を使わんで済むという事は、そのまま神情に向かって行くけいこであると同じ、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けという事は、ね、そういう内容をもあると思う。ね、馬鹿と言われりゃ腹が立つ、それけども辛抱しとくという間は、まあだ本当なこっちゃない。
ね、それが心配にも腹も立たん。心の無駄を取って行くという事が、いよいよ馬鹿と阿呆で道を開いて行くという事になる。そういう信心を、お互い目指させて頂くという事が、とりもなおさず、いわば大きなおかげが受けられる。言うならば大きな信心という事にもなる訳ですよね。どうぞ。
末永信太郎 ( 7月25日 )